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絵師 木村 英輝 氏

人と場との出会い、語らいと縁からはじまる壁画アート。

絵師

木村 英輝 氏

Painter,Hideki Kimura

1942年大阪府泉大津市生まれ。(現)京都市立芸術大学図案科卒業後、同大講師を務める。
日本のロック黎明期に、オーガナイザーとして数々の伝説的イベントをプロデュース。
還暦より絵師に。手がけた壁画は国内外で200カ所を超える。ロックと共に歩んできた半生は躍動感あふれる画面にもあらわれる。
アトリエでカンバスに向かうのではなく、「ライブ」な街に絵を描きたい。究極のアマチュアリズムを標榜する異色の絵師。
作品集に『無我夢中』(淡交社、2009)『LIVE』(青幻舎、2011)など。

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幼年時の自然の原風景と、モチーフをスケッチする無心の時。

描くはじまりは、4、5歳の頃です。道端で等身大かそれより大きな絵を描いていました。
蝋石を使って、相撲取りとか大きな樹とか。そんなに大きな絵を描く子はめずらしかったのでしょう、近所の人が集まってきて褒めてくれていた、そんな幼年の記憶が原点ですね。
だから、60歳で再び描きはじめても、大きな壁に描くことは自然な流れでした。また、トンボやカエルといった小さな生物を採って遊んだ記憶から、日本の自然の原風景への愛着もあります。
たとえば青蓮院で描いた時は、立派なモチーフよりもあえて小さく素朴な生き物を題材に選んだりと、そんな時に日本の自然への郷愁は自分の中に変わらず生きているんだなと感じます。
また、僕は依頼を受けてモチーフが決まったら、かならずスケッチに行きます。スケッチしている時は本当に無心で、これが大事なんです。僕は実際にないものは描けない。
これまで依頼の多かったものに「龍」がありますが、「龍」は実在しませんから、中国の古事「登龍門」、また「鯉の瀧登り」という言葉から、「鯉」へと転じて描き、それが今では代表的なモチーフになっています。

自由な精神と画想で、「デコラティヴ·アート」への道。

今のように描きはじめたのは、60歳を少し前にしてのことです。
新しいもの、ロックなものを求めて、アンディ·ウォーホルやリキテンスタインといったポップ·アートのさきがけに負けないものをと追っていると、なかなか思うように描けなかった。
そんな時、描きたいものを描くのではなく、描ける絵を描こう、と思ったんですね。すると、素直に自由に描けるようになった。それが大きな転換点だったと思います。
(現)京都市立芸術大学の図案科にいた1960年代、京都は日本のロックの草創期にあって、色々な音楽活動をしながら、ストレート、シンプル、フリーといった、ロックの精神性に出会っていたことも大きな基盤になっていますね。
純粋に内側から出てきたものをストレートに出すことができる「アート」の方に魅力を感じたわけです。その後、「琳派」やクリムトなどにも影響を受けました。
大胆な構図や、金色を印象的に使っていくスタイルなど。ジャンルを聞かれると、僕は屋内の大きな壁に描くことが多いので「装飾絵画」「デコラティヴ·アート」と呼ばれています。

日本古来の縁起の力を借りて、人がつながり「気」がよくなる。

私は外へ描きに出るため、在庫というものがありません。仕事は、依頼者とその場所との対話からはじまります。モチーフの希望を伺い、実際の場所を見ながら構図を考えていきます。
たとえば「ザ·リバーオリエンタル」は「象」、「青蓮院」は「蓮」というように決まっていく。次には、その場の方角や窓の位置を把握する。
そこで、古くは中国から日本に今でも受け継がれる古来の縁起、東洋の知の力を借ります。「孔雀」なら陽のあたる道の方を向かせるとか「鯉」などを光が射す方へ登らせるなど。先だっては、四つの方向に宿る「四神」という霊獣を描くという依頼がありましたが、どれも想像の生き物ですから描けない、そこで、「青龍=鯉」·「朱雀=孔雀」·「白虎=虎」·「玄武=亀」とそれぞれつながる動物に転じて描きました。
吉方·鬼門などの方角は場所によりますが、数は一つの縁起があり、基本は「9」が良く、また「3」の倍数でモチーフの数を決めています。
「9」「18」「36」というように。この場の「気」が良くなり、多くの人が集い、つながり、幸せでありますようにと願いを込めて。ゆったり良い「気」がめぐるよう祈りをこめて制作していきたく思います。

Collaboration 木村 英輝 氏の参加物件

ベラジオ 雅び 烏丸十条Ⅱ

ベラジオ 雅び 烏丸十条